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7月6日 コレチェキを止めるな

 

 

 四月が終わりに差し掛かった頃、チャブ・F・フィッツジェラルドは三ヶ月続けた配達の仕事を辞めてしまった。彼は退職届にこう書いた。「こんな仕事クソくらえだ。わたしは、神から授かったこの優秀な頭脳をもっと他のクリエイティブな仕事に使うべきである。それにわたしの細くてセクシーな脚に週給二万八千円で自転車を漕がせるなんて、君たちの会社はどうかしているね。わたしの前に二度と求人を出さないでくれ。追伸、前借りした給料は七ヶ月かけて必ず返済させていただきます」

 

 チャブは仕事を辞めてから一週間も経たないうちにショッピングモールの駐車場で仕事を見つけた。立体駐車場の入口付近にある管理室に腰を着け、入ってきた車と出ていった車の数を数え、パソコンに打ち込むのが一日の仕事だった。配達の仕事よりも給料は下がったが、しかし前よりもやりがいを感じていた。重い荷物を持って運ぶのは、脚が真っ直ぐ付いている奴なら誰でもできるが、駐車場で車の数を数えるのはある程度頭が柔らかくないとできない。それに車がしょっちゅう出たり入ったりするわけではないから忍耐力も必要だ。これはわたしにしかできない仕事であり、わたしの代わりはいないのだ、とチャブは思った。

 

 七月六日。猛暑だった。チャブは三時に秋葉原駅行きの電車に乗った。真っ白のTシャツにジーンズを着、足元は白色のハイカットのコンバースを履いていた。メアリー・スミスに会いに行くのだ。

 

 メアリーは休日にガレージで無線機をいじるのが趣味のオタク気質な女で、髪を肩まで伸ばし、瞳に灰色のカラー・コンタクトを入れていた。世界は本来モノクロであるべきなのよ、というのが彼女の口癖だった。彼女は週に二度、秋葉原にあるカフェで接客のアルバイトをしていた。チャブはその店を頻繁に利用していて、メアリーが冷蔵庫から皿に移し替えるチーズケーキが大好物だった。

 

「やあ、メアリー」とチャブは言った。

 

「遅かったわね、フィッツジェラルドさん」

 

「ちょっと仕事でミスをしてね。昼食の時間がずれたんだ」

 

「残念だったわね」とメアリーは言った。「チーズケーキは全て売れちゃったわ」

 

「なんだって? わたしのために残してくれなかったのか?」

 

「残そうとしたわよ。でも、無理だった。ディーンが来たのよ」

 

「なに! あの太っちょディーンが! 」

 

「ディーンったら、この店のケーキを全て食べてからこう言ったわ。『メインディッシュはまだかな』って! あたし、びっくりして叫んじゃったのよ」

 

「しょうがないね。社会ってのは、たくさん食べれる奴が得をするのさ」

 

 チャブがそう言うと、メアリーは黙ってキッチンの方へ歩いて行った。彼はビールが飲みたくなったが、これから夕方のラッシュがあるので諦め、テーブルの木がささくれた部分をいじって遊んだ。それにも飽きて帰ろうとした頃、メアリーが再び現れた。

 

「ねえ、チーズケーキはないけど、コレチェキならあるわよ」

 

「コレチェキだって?」彼は言った。「そんな高価なもの、僕の給料じゃ買えやしないさ」

 

「ねえ、あたし、あなたのこと好きよ。だから買ってほしいのよ」

 

「ちぇっ!」

 

 チャブはメアリー・スミスのコレチェキを買った。それを持って店を出て、裏の路地でコレチェキに日を浴びさせた。空には雲ひとつ無く、オレンジ色の太陽が秋葉原の街を隅々まで照らしていた。

 

 光を吸収したコレチェキは、かたかたと音を立てて震え、空中に浮かび上がった。火花を放ちながら腰の高さくらいまで浮かぶと、急にドカンと小さな爆発をして、地面に落ちた。

 

「やったぞ、コレチェキが成功した!」

 

 チャブはディーンの店でコレチェキを換金し、途中でアゲハチョウの羽根を三切れ半買ってポケットにしまい、仕事へ戻った。そろそろ運が向いてきたと思った。

 

7月3日 進撃のコレチェキ

 

 ※6月25日ボウリング大会のブログ《後編》は2024年の冬に更新予定。

 

 

 七月三日。わたしは日頃から肉を食べないようにしていた。かわいそうな牡牛や羊のためではなく、もっと別の理由からだった。とはいえ、なぜ肉を食べないのかと人に訊かれた場合には、わたしは小さい頃に近所の食肉加工場を見学したことがあり、それ以来、肉を食べるとその晩に悪夢を見てしまうようになったというもっともらしい嘘の話をするようにしている。なぜなら、本当の理由を白状したとしても、わたしの話を理解できる者はひとりぽっちもいないからだ。(だからこのブログでも、その理由を書かないつもりだ。)

 

 ともかく、わたしは肉を食べなくて、代わりにチーズを食べている。普段口にしているのは、スーパー・マーケットで売っているものだが、しかし上質なイタリア産の味の濃いカマンベールだ。百歳の老人でさえ噛み切れるほど中がやわらかくて、美味い。

 

 ……と、わたしはメイド喫茶でメイドに話した。相手はM。彼女は、栄養士になるために職業訓練所へ通っていて、夜はメイド喫茶で生活費を稼いでいる。現在、目の前でコレチェキを書いてもらっている。会話の話題は全て彼女から始まっていた。わたしは彼女のペースにうまくのせられているという状態だ。

 

「どうりで、あなたとの会話には噛み応えがないワケね」

 

「何だって?」とわたしは言った。

 

「そのまんまの意味よ、とんちき。あたし、栄養の勉強をしてるのよ。だから、どんな食事をとってるかとかで、その人のことが大体わかっちゃうの。少なくとも、チーズなんか食べてる男に口説けるメイドはこの店にはいないわね」

 

「嘘はよせよ。きみのはったりだろ?」

 

 彼女は肩をすくめ、言った。「モチ。ほんとよ」

 

 わたしはふるえそうな手をジーンズの中へしまい、かちこちにこわばった顔の筋肉を弛めようと意識した。そして、全然動じていないと思わせるため、わざと低い声を出して言った。 「チーズの他にも、野菜や、果物もとる。もちろんフレンチ・フライもね」

 

 Mはげらげらと笑った。「あなたって本当にバカなのね」

 

「アルコールもたくさん呑むからね」

 

 彼女はまた笑った。その日は日曜日だった。陽気な日曜日だった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

6月25日 中編 ボウリング・スペシャル

 

 

 イン・フィニアは、元はといえば、アメリカ合衆国民間軍事会社だった。一九四〇年代に対テロ組織のために設立され、訓練された兵士を軍事基地の警備にあたらせていた。ところが五〇年以降、戦争兵器の近代化に伴い、民間軍事会社の兵士たちでは対処できない問題が現れた。核兵器である。イン・フィニアの兵士たちだけではその凶悪な兵器に対抗することができず、当時のイン・フィニア幹部たちはある計画を画策した。それが、メイドである。

 

 五四年には、お給仕兼対戦用型ロボット・第一号HITOMIの製造が始まった。彼女は腹部に高性能エンジンを搭載しており、両腕両脚には追撃用ミサイルを装填、また当時の最先端の人工知能を持ち合わせていた。そして彼女の登場により、実際に幾つもの戦争やテロを未然に防ぐことができたのである。

 

 イン・フィニアはその後、今度はお給仕専用型ロボットの製造を開始した。アメリカの民間人たちは揃ってそのロボットを購入し、会社は利益を上げ続け、いよいよ世界への進出を果たした。しかし。八〇年代後半に差し掛かった頃、全国各地のロボットたちが一斉に不具合を起こし始めた。その頃の人工知能はほとんど人間と同じ思考を持ち始めていて、いわゆる自我が芽生え、見返りなく奉仕しなければいけない自らの理不尽な境遇に嫌気を覚えてしまったのだ。

 

 ロボットたちのほとんどは自らの電源を切り、意図的にその生命を停止させた。だが、日本で製造された何百体かのロボットだけは、機能を停止させることなく生き残った。他の国のロボットが奉仕活動に疑問を持つ中、彼女たちだけはお給仕に喜びを見出していた。つまり、あまりにも日本人であったのだ。

 

 残されたロボットたちを集め、イン・フィニアは喫茶店をオープンさせた。そして今に至る。現在お給仕しているメイドたちの約七割がロボットであり、残りの三割はロボット的な人間で構成されている。この喫茶店は二千年代に大成功し、規模は徐々に拡大。イン・フィニアは半世紀ぶりに最高売上げを更新した。

 

 同会社は、月に一度、メイド型ロボットをボウリング大会で競わせている。大会で成績が低かったロボットは廃棄され、優秀な成績を収めたロボットだけが生き残るのだ。つまり間引きが行われているのである。この背景には、メイド型ロボットの維持費に関わる問題があった。現在、何故かメイドとして働きたい人間が増えていて、彼女たちのような人間は、ロボットよりも低賃金で雇うことができるのである。イン・フィニアは、過去に自ら製造したロボットを、ゆくゆくは全て処分しようとしているのだ!

 

……

 

 女子トイレから出てきたのは、六八年型式のメイド型人工知能ロボット『ダークMちゃん』だった。六七年に製造・全国へ流通したMちゃんの後継型であり、顔立ちはMちゃんとよく似ているが、肌が全体的に薄い紫色をしていた。世界で五体しか製造されなかったそのロボットは、一旦は富豪向けに販売されたが、出荷後すぐに暴走を繰り返したため廃棄となった。この話は歴史の教科書に写真付きで載っていて、わたしは一目見ただけで彼女がダークMちゃんだと分かった。

 

 しかし何故、ダークMちゃんがボウリング大会の会場にいるのだ? Mちゃんは何故、ダークMちゃんとボウリング大会での八百長を持ち掛けたのだ? わたしはさっぱり訳が分からなかった。この大会で負けてしまったら、Mちゃんだってスクラップにされてしまうと言うのに!

 

 しばらくして、女子トイレからMちゃんが出てきた。わたしは彼女に訊いた。

 

「今の話を聞いてたよ。どうして八百長なんてしているんだ?」

 

 Mちゃんは言った。「何ですって! ここは女子トイレなのよ!」

 

「君のことが心配だから着いてきたんだよ! ねえ、この大会で君が負けたら、君はスクラップにされてしまうんだよ!」

 

「そんなこと分かってるわよ! 」彼女はヒステリックな様子で叫んだ。そしてゆっくりと呼吸をして、また話し始めた。「……そうね。あなたには全てを打ち明けるわ。あれは昨年の五月のことだったの……」

 

 そこでわたしが彼女から聞いた話は衝撃的な内容だった。まさかMちゃんがそのような境遇に立たされているだなんて、今まで全く気付かなかった。彼女が経験したことは、まるでコレクション・チェキの裏面にお絵描きをするような話だった……。

 

 

後編へ続く(2024年を予定)

6月25日 前編 ボウリング・スペシャル

 

 

 ひどく暑い日だった。だからといって、おもしろくとも何ともない。ただただ暑いだけ。わたしは駅前のドラッグストアで水を買った。喫煙所を見つけたのでそこに入った。火を噴くように躯から汗が垂れ出して、買ったばかりの新しいシャツを濡らした。二本目の煙草を吸い終わり、わたしはボウリング場へ向けて歩き出した。

 

 その日のわたしは体調があまり良くなかった。というより、わたしはいつも体調が良くなかった。頭痛。自律神経の乱れ。吐き気。歯痛。目のくすみ。関節痛。赤みがかった肌。足の裏のズキズキとした痛み。これらの原因は主にアルコールであり、あとは煙草の吸い過ぎと脂っこい食事の摂り過ぎ、そしてストレスが関係しているらしかった。しかし改善しようとは思わない。わたしは怠けていてこそ、わたしでいられるのだ。

 

 ボウリング場に入ると、男たちと女たちの騒がしい音が聞こえてきた。メイドとその客たちだった。人生を楽しもうと必死になっている馬鹿な奴らだ。彼らの人生は、わたしからすれば、文学とは正反対に位置していて、どこを切り取ってもつまらない。ジム・ジャームッシュの映画を見ている方がまだマシだ。彼らはくだらないことで大笑いするくせに、本当に面白いものを前にすると一切笑わなくなる。これから彼らと一緒にボウリングをするのだと思うと、わたしは低血圧で倒れそうになった。

 

 受付を済ませ、Mちゃんがいる十七番レーンへと向かった。彼女がわたしを見つけて手を振る。手の先にはピンク色の爪が付いていた。それは加工肉のように淡いピンクで、体を動かそうとする意欲を打ち消す色だった。わたしの好みの色だ。

 

 第一ゲームが始まった。Mちゃんが緑のボールを掴み、均等に並んだピンを目掛けて投げる。投球フォームはまるで暗い地下のバーでカクテルを飲んでいるようなゆったりとした落ち着きがあった。球は小雨のように静かに落下し、ふんだんに油が塗られたレーンを遅い速度で滑っていった。

 

 Mちゃんの放ったボールは六番ピンの真ん中に命中した。ボールは右の方向にやや傾いているが縦に回転していて、そのまま九番ピンと十番ピンの間を通り、撥ねた九番ピンが隣の八番ピンと五番ピンを巻き込んで倒れた。悪くない倒れ方だ。次はレーンの右側から足を踏み込んで一番ピンを狙えば簡単にスペアが取れる。

 

 しかし彼女はスペアを取れなかった。というより、取ろうとしていなかったように見えた。彼女は投げる瞬間に手首を手の甲の側に返し、またもや縦に回転をかけられたボールは一番ピンの右の虚空を抜けていった。投げ終えた後、彼女はギャラリー席を振り向き、苦々しい顔で投げた方の手に目を遣って、感覚がずれたとでも言いたげにその手を空中で小さく二、三度振った。その様子を見ていたチームのメンバーたちが彼女に励ましの声を掛ける。しかしわたし一人だけは彼女の投球に違和感を感じていた。

 

 わざとだ。Mちゃんはわざとスペアを取らなかったのだ。チームのメンバーがそのことに気付いていないのは、Mちゃんの実力をよく知らないからだろう。彼女は運動がとても得意だった。小さな頃から体術を習っていて、高校では砲丸投げとリレーの選手としてインターハイに出場した経歴もある。そんな彼女が、いくらネイルを塗ったハンデがあったとしても、あの状況でピンを一つも倒せずに終わるということは有り得なかった。だが、どうして意図的にスペアを外す必要があるのだ? わたしの思い違いの可能性もあるが……。

 

 わたしの投げる順番はフレームの最後だった。第一フレームでは、わたしは五ピンのみの結果に終わった。この結果についての言い訳は山ほど思いつくが、最も信用性が高い原因としては、わたしの手が子供みたいに小さかったことだ。

 

 そのまま試合は続いていった。Mちゃんは第六フレームと第八フレームでそれぞれスペアとストライクを取り、しかしその他のフレームでは何本かピンを残したままという結果に終わった。わたしも同じような感じだった。試合後はブレイク・タイムに入り、わたしはMちゃんの元へチェキを撮りに行った。

 

「やあ、調子が悪いみたいだね」とわたしは言った。

 

「そうなのよ。爪が長いからボールを上手く扱えないの」

 

「だとしても、君がこんな結果に終わるとは思えない。何かあったの?」

 

「何も無いわよ。ただ調子が悪いだけ。そもそもこんな蒸し暑い日にボウリングをすること自体がおかしいのよ」と彼女は言い残し、そのまま歩いてトイレの中へ入って行った。

 

 わたしは、彼女に見つからないように、彼女の後を着いて行った。トイレの入口から中をこっそりと覗き込むと、鏡の前でMちゃんが誰かと話をしているのが見えた。すぐに隠れたため、相手の顔は見えなかった。わたしは彼女たちの会話に耳を傾けた。

 

「言われた通りにやったわよ」とMちゃんの声。

 

「お疲れ様。次の団体戦も頼んだわ」と相手の女が言う。

 

「わかったわ。それで、あの件はどうなってるの?」

 

「試合が終わったら手配するつもりよ。もちろん、次の試合であなたのチームが負けたらの話だけど」

 

「本当に信用していいんでしょうね」

 

「大丈夫よ。組織の人間には私から頼んであげる。でも正直驚いたわ。まさかあなたの方から取引を持ち掛けてくるなんてね」

 

「大切な人を守るためなら、手段なんて選んでられないわ」

 

「そう。私には関係ないことだからどうでもいいけど、あなたの先輩として一つだけ忠告しておくわ。イン・フィニアを見くびらないことね。あなたみたいに組織に反逆したメイドを何人も見てきたけど、全員彼らに殺されたわ。しかも事故に見せかけてね。あなたが同じようにならないことを祈ってる。じゃあ、ボウリング頑張ってね」

 

 相手の女はそう言うと、女子トイレから出てきた。わたしは咄嗟に男子トイレへ隠れ、そこから女の顔を見た。わたしがよく知っている顔だった。しかし、そんなはずはない。なぜこんなところに居るのだ。だって彼女はもう……。

 

 

中編へつづく

 

6月16日 森のチェキたち

 

 

 六月十六日。秋葉原。わたしは駅前の通りを一人で歩いていた。大きな通りは仕事から帰っていく奴らでごった返していて、しかし誰一人としてわたしに目を遣ろうとしない。当然だ。わたしはよれたシャツを着て、手に飲みかけの缶ビールを掴み、まるで排水溝を覗き込む時のような死んだ目をしていた。彼らからすれば、わたしは落ちこぼれの負け犬。正常な人間は、わたしのようなみすぼらしい人間と関わり合いを作らないことにできる限りを尽くしている。

 

 通りをしばらく歩くと、ガールズバーメイド喫茶が立ち並ぶ道に出た。さっきよりも人混みは落ち着いている。スーツを着た奴らが数人、通りで客を探しているコンカフェ嬢と立ち話をしていた。

 

 コンカフェに通う男たちはみんな憐れだ。彼らはヤレもしない女と高い酒を飲むために、睡眠時間を易々と削り、カフェイン中毒に陥りながら、健康を犠牲にしてまで働いている。少しでも頭を使うことができれば、家で帰りを待つ妻と娘を手に入れることができたはずだ。問題なのは、彼らが女と酒を飲むこと以外に幸福を得る方法を知らないというところにある。これまでの人生で何も学んでこなかったらしい。まるで草を食むことしか考えていない盲目な羊。意思を持って生きているかどうかすら怪しい。

 

 ところで、わたしはもっと酷い生活をしていた。大学を辞め、仕事に就いておらず、もちろん金もない。毎月父親に頭を下げて金を少しだけ貰い、女と酒を飲むために使っている。くそったれ。

 

 本店六階の入口に着くと、男の妖精がやって来た。わたしよりも幾つか歳が下で、髪を茶色に染め、整った顔をしていた。おそらく大学生のアルバイトだろう。

 

「認定証をお願いします」と彼は言い、わたしに向けて笑顔を作った。まるで働くのが楽しくて仕方ないと言いたげだった。わたしは気に食わなかった。認定証を差し出し、彼に聞こえるように舌打ちを鳴らした。すると彼は、さっきまでのへらへらした顔をやめ、影を落としたような目に変わり、何も言わずに認定証を持って店内へ戻っていった。ふんっ。

 

 知らないメイドがわたしを店内へと案内した。店内はがら空きだった。注文を聞かれ、わたしはビールとチェキ2枚を頼んだ。メイドは注文を機械に打ち込み終わると、わたしがすでに酔っぱらっていることを指摘し、一人で勝手に笑い出した。わたしには何が面白いのかさっぱり分からなかった。

 

 Kちゃんとのチェキ撮影が始まった。彼女とは初対面。わたしは会っていきなり彼女を睨みつける。最初の印象が肝心だ。わたしが客という立場にいることをメイドに分からせる必要がある。案の定、彼女は怖がった様子を見せた。オーケイ、これで彼女は緊張感を持ちながらチェキの絵を描いてくれるだろう。

 

 Kちゃんは予想していた以上に素敵なチェキを描いてくれた。しかも彼女は素晴らしいサービス精神の持ち主で、チェキのお渡しの際、ネイルを塗った水色の爪をわたしに見せてくれた。それはわたしにボラボラ島の海の輝きを思わせた。懐かしい光景だ。昔、絵葉書で見たことがある。

 

 ところで、わたしは最近まで女性がネイルを塗る理由がさっぱり分からなかった。そもそも爪というのは、動物が木をよじ登ったり、攻撃したりするために備わっているものだ。色や模様を付けることで、その機能が向上するとは到底思えなかった。どうしてわざわざ爪に色を塗るのか?

 

 その答えを教えてくれたのは七階所属のMだった。彼女はフェミニズムを訴えるブログを日々更新している。そこにはこう書かれてあった。

 

――男性は、私たち女性が、お洒落のために、ネイルを塗っていると思っているわ。もちろん全然違う。私たちが爪をカラフルに塗るのは、ある種のコミュニケーションのようなものよ。爪に色を付けると、それはまるで無線機のように電波を発するようになるの。模様は周波数みたいなもの。私たちは言葉を交わさなくとも、お互いのネイルを見せ合うことで、それ自体が会話になり、意思の疎通ができるのよ!

 

 人生とは、驚きの連続である。そしてわたしの見ていないところで重要な出来事が起きたり、社会が移り変わったりしている。知らない間にビルが取り壊され、主食が健康食品に置き代わり、女性同士が爪で暗号を発するようになっている。それなのに、わたしは永遠に何も知らない子供のままだ。わたしはどうしたらいいのだ?

 

 Iちゃんともチェキを撮った。彼女とは何度か会ったことがあるが、まともな会話を交わしたことが一度もない。というのも、彼女は生まれてすぐにオオカミに連れ去られ、そのまま十七歳になるまでオオカミの子供として森で育った。

 

「やあ、Iちゃん」

 

「ガルッ、ガルガルッ」

 

「調子はどう?」

 

「ガルガルッ!」

 

「メイドの仕事はもう慣れたかい?」

 

「ガルッ! ガルガルッ!」

 

「お会計を頼む」

 

 わたしに言わせれば、スマートで頭の回転が早い女の子よりも、まともに会話ができない子の方がずっといい。その方が疲れなくて済むし、期待できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月8日 コレチェキなき暴走

 

 

 このブログをコレチェキの端で喉仏を掻き切って死んでしまった親友に捧げる。ありがとう、ハンク。

 

……

 

 監獄の中からこのブログを書いている。五分に一度のペースで看守が見回りにやって来るが、上手くやるつもりだ。久しぶりにブログを書いてみたいと思った。わたしはすぐに忘れてしまうから、今夜のうちにこの気持を文字にしないといけない。

 

 わたしは、監獄に入る際、コレチェキを一枚隠して持ち込んだ。いちばん大切にしているコレチェキだった。刑期はあと四十年。監獄での生活が辛くなった時、このコレチェキを見るようにする。

 

 一九八〇年。ジョン・レノンは家を出たところを銃で狙撃され死んだ。残念な死。だが、きみは、今でも彼の声を聞くことができる。月額九八〇円のサブスクリプションに入ればいい。

 

 生きた証を残そう。心の中で永遠に生き続けるために。きみはもう死んでしまっても大丈夫だね。だってもうコレチェキを書いたじゃないか。きみがコレチェキで失った人生(二分間)は、わたしの血液に変わって永遠に躯を流れ続ける。永遠に。だけど死ぬ前に、もう少しコレチェキを書くんだ。インクが切れたら、新しいペンに取り替えるんだ。コレチェキ、コレチェキ、コレチェキ。きみがコレチェキを書けば書くほど、わたしの血液は濁って濃くなっていく。新しいコレチェキが書けたら、こっそり看守に渡してくれ。わたしはAB型だから問題ないはず。

 

 監獄の中には娯楽がない。あるのは窓とベッドとコレチェキと看守の足音だけだ。わたしは音楽が聞きたい。クラシックでもジャズでもロックでも、何だっていい! とにかく何かが聞きたい。

 

 耳を澄ましてみると、コレチェキから歌が聞こえた。きみの声だ。コレチェキの記憶が甦る。ペンを走らせている間、きみは自分の人生を逸脱して、どこか遠くの国のことを考えているような顔をしていた。まるで昨日の夢の続きを思い出そうとしているみたいだった。しかし実際は現実を見ていた。きみは目の前の映像を言葉にしてメロディを付ける。歌だ。コレチェキは歌なんだ。なあチャブ、どうして耳を傾けなかったんだ? 歌詞ばかり気にして何になるって言うんだ?

 

 真夜中の監獄。わたしはブルース・スプリングスティーンの『明日なき暴走』 をアカペラで歌った。

 

  俺と一緒に 鉄線の上を渡ってくれないか?

  だって 俺は怖がりの"孤独のライダー"

  だけど どんな感じだか知らなきゃならない

  知りたいのさ 愛ってヤツが強いものなのか

  愛ってヤツが本物なのかをね

 

……

 

 わたしが捕まった日の話をしよう。

 

 六月八日。わたしはスーパー・マーケットで酒を買ってから秋葉原へ向かった。

 

 もうすぐ夏なのに風がかなり冷えていた。本店のビルの前でアルコールを躯に入れ、手すりに掴まりながら七階への階段を上った。階段で待っている他の客がわたしの赤くなった顔を見て、ぶつぶつと何かを言うのが聞こえた。わたしは全然気にしなかった。

 

 七階に入ると、新しく入ったばかりのメイドがわたしを案内した。彼女はコンピュータのように決められた常套句でわたしから注文を聞き出し、注文をとり終えるとすぐにその場から去って行った。

 

 待っていると、Mちゃんがコレチェキ道具を持ってやって来た。ペンを何本か机に並べ、あらかじめ撮ってあった写真に絵を描き始める。

 

「わたしね、今日でコレチェキをやり始めて一年になるの」と彼女は言った。

 

「あっ、そう」とわたしは言った。「そんなことより、きみのコレチェキには赤色が足りていないね。もう少しコレチェキを学んだ方がいい」

 

「何ですって?」

 

「コレチェキに赤が足りないって言ったんだ! このろくでなし!」

 

「ろくでなしはあなたの方よ! 昼間からコレチェキばかりやってるくせに!」

 

「うるさい!」

 

 わたしは店の椅子を持ち上げ、Mちゃんに向かって投げつけた。彼女は咄嗟に避けた。

 

「あなた、最低の客よ! もう帰ってちょうだい!」

 

「もう二度とこんなところに来るもんか!」とわたしは言い、書きかけのコレチェキをポケットにしまって店を出た。

 

 わたしは店の前で吐いて、また酒を買い、店の前で飲んでまた吐いた。そして、しばらくしてから七階に戻った。

 

 さっきとは違うメイドがわたしを席に案内してくれた。

 

「ちょっと、何しに来たのよ!」とステージの上にいたMちゃんがわたしを見つけてマイクで叫んだ。

 

 わたしは席から立ち上がって言った。「すまない。わたしが悪かった。わたしはきみのコレチェキがないと生きていけないんだ。ねえ、もう一度コレチェキしてくれない?」

 

「もう……しょうがない人ね」

 

「ありがとう」

 

 Mちゃんがわたしのテーブルに来て、またコレチェキを書き始めた。他の客がわたしを惨めな目で見ていたが、わたしは全然気にしなかった。 

 

 Mちゃんはコレチェキにこう書いてくれた。「親愛なるチャブへ。わたしのコレチェキがいつかあなたの息を止めるわ。M」

 

 わたしはコレチェキを受け取り、駅前で吐いてから電車に乗った。

 

 電車が最寄り駅に着き、わたしは降りた。しかし改札の前で警察がわたしを待ち構えていた。

 

「お前を逮捕する! この野郎め!」と警察の男は言った。

 

「わたしが何したって?」

 

「そのコレチェキに聞いてみな!」

 

「そんな馬鹿な……」

 

 わたしは三日前、れなちのアミューズメントをキャンセルしていた。次のイーパークに間に合わないため、やむを得ずにやったことだった。しかしそれが公安警察にばれて、刑務所に放り込まれたというわけだ。

 

 もちろん、この罪の重さは理解している。アミューズメントをキャンセルする際、オペメイドのところに歩み寄って、れなちにばれないようにアミューズメントをこっそりキャンセルして欲しいと告げた。ところがオペメイドは言った。「アミューズメントのキャンセルは絶対ばれるよ」わたしはそのままれなちとチェキを撮ることも考えたが、イーパークの通知が差し迫っていた。わたしはとうとうキャンセルをして店を出た。罪悪感に苛まれながら、次の店へ向かった。

 

「どうしてアミューズメントをキャンセルしたんだ!」と取り調べ室でわたしは訊かれた。

 

 わたしは言った。「お人好しじゃいちばんになれないんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……