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アンドロイドはコレチェキの夢を見るか?

 

 

 朝、目を覚ますと、隣に見知らぬコレクションチェキが置いてあった。やれやれ。

 

 わたしはよく、このような状況に追いやられる。アルコールをたくさん呑み、朦朧とした意識のまま、ついついコレチェキを買ってしまうのだ。

 

 わたしは酒、タバコ、そしてコレチェキのせいで頭がおかしくなっている。もちろん躯もぼろぼろで、医者からはいつ死んでもおかしくないと告げられてしまった。

 

 一般的には、コレチェキを一枚書いてもらうごとに、寿命が三週間縮むと言われている。

 

 わたしは今までに九〇〇枚のコレチェキを受け取ってきた。寿命が八十年だとすると、わたしはあと一ヶ月しか生きられない計算になる。だけどわたしは冷静。悲しみのなかに幸せを見つけるのがうまい。もうすぐ死んでしまうということは、もう新しいチェキ・ファイルを買わずに済むということである。

 

 わたしは愛車の一九六九年式マーキュリーに乗り、太陽が沈んでいく方向へ車を走らせていた。行くあてはなかった。四時間くらい運転していると、太平洋にたどり着いた。

 

 わたしは海岸沿いの路肩に車を停め、シートをいっぱいに倒し、タバコに火をつけた。窓の外に目を遣ると、カモメが二羽飛んでいくのが見えた。頭をシートの背もたれにつけて目を閉じる。棺の中にわたしの死体があり、その周りにコレチェキが添えられている映像がまぶたの裏に映る。わたしの葬儀だ。家族や数少ない友だちがちらほら見えるが、しかしコレチェキに写っている女性はひとりも参列していない。やがてわたしは火葬場に運ばれて、コレチェキとともに灰にされてしまった……。

 

 わたしはそのまま眠ってしまっていた。気がつくと、すっかり夜になっていた。あたりは静寂に包まれていて、波の音以外は何も聞こえない。わたしは車のエンジンをかけ、自宅までまっすぐ帰った。

 

 次の日。わたしは机の上にノートを開き、コレチェキについて考えたことをまとめていた。

 

 わたしの人生、つまりコレチェキを貰い続けるだけの生活には、何か特別な意義があっただろうか。

 

 そもそもコレチェキって何なんだろう。

 

 わたしは辞典を開いて、『コレチェキ』の欄を調べた。そこにはこう書いてあった。

 

【コレチェキ】 別名・愛と憎しみの時間。提供者と傍観者に分かれて行うボード・ゲームの一種である。主に女性が提供者となり、自らの姿を写したフィルム写真に花やリンゴなどの絵を描き加え、傍観者へ贈与する。傍観者は写真や絵の完成度に関係なく、提供者に千百円を渡し、感想を述べる。始まりから二分が経つとゲーム終了となる。傍観者が満足すれば提供者と傍観者ふたりの勝利となり、傍観者が満足しなければ提供者と傍観者ふたりの敗北となる。傍観者はゲーム中に贈与された写真を持ち帰ることができるが、そこに愛と憎しみのどちらが込められているか確認することは不可能である(勝敗にも関係しない)。また、このゲームの起源がアダムとイヴであることから、禁断のアミューズメントとも言われている。

 

  ……わたしは、わたしの人生を、このボードゲームに捧げてきた。勝ったり負けたりを繰り返しながら、ただ暇つぶしをしていただけだった。

 

 この空虚な人生に意味や価値なんて存在しない。わたしは突然、ニヒリズムに陥り、頭が痛くなった。

 

 アスピリンを飲むと少し落ち着いた。バスルームで吐いてから、机に戻って再度ノートを開く。

 

 わたしの人生は、コレチェキとともに灰になる。

 

 わたしの人生はつまらないものだっただろうか……いや、わたしはむしろ幸福だった。学校ではうまく馴染めず、仕事も思うようにいかなかった。だけどコレチェキを貰うあの瞬間、わたしはずっと、笑っていた。

 

 わたしの人生は、コレチェキとともに灰になる。

 

 コレチェキを渡してくれた女性たちのことを考える。彼女たちはわたしの葬儀に参加してくれない。わたしのことを愛していなかったからなのかもしれない。しかし、わたしは感じていた。わたしがコレチェキを受け取るあの瞬間、わたしの躯中に流れるクラシック・ジャズの美しい旋律を。

 

 わたしの人生は、コレチェキとともに灰になる。

 

 わたしは夢を見ながら現実を生きてきた。わたしは小さい頃から絵描きになりたかったが、残念ながら絵は一枚も売れなかった。わたしはたくさん夢を見てきたが、これだけは言える。わたしが死ぬ瞬間、わたしの走馬灯に映るのは、今まで見てきた夢ではなく、現実の記憶である。コレチェキを眺めながら微笑んでいるわたし。

 

 わたしは立ち上がり、自宅のドアを開けて外へ出た。

 

 コレチェキを貰いに行かなくちゃいけない。