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6月4日 コレクションチェイク

 

 コレクションチェキ、かく語りき。

 

 わたしは六月から大学で哲学を教えている。ソクラテスプラトン、カント、フロイト孔子サルトルキルケゴールハイデガーライプニッツ。彼らはみんな偉大な哲学者たちだ。わたしは彼らを愛し偶像化している。とくに憧れているのは、やはりニーチェ。彼がすでに死んでいてよかった。もしまだ生きていたら、わたしは彼のサイン欲しさにブロマイド写真を買いすぎて破産していただろう。

 

 だが。彼らの思想がどれだけ立派であっても、わたしたちの生活に必ずしも実用性があるとは限らない。

 

 ニーチェによると、傘を盗むのはいつだって夜メイドである。(被害に遭うのは朝メイドだ。)しかし実際のところ、傘を盗んだ犯人が夜メイドかどうかは、捕まえてみないと分からない。盗みがおこなわれる時間、傘を置いていった朝メイドはもう自宅に帰っていて、消化したアミューズメントの数をのんきに数えているところだ。一体だれがこの犯罪者メイドを捕まえることができるだろう。ニーチェの思想は空論にすぎず、実証が不可能である。この哲学がほんとうに正しいかどうかは、罪を働いた者にしかわからない。

 

……

 

 講義が終わった後、一人の女子学生が研究室をたずねてきた。

 

「カントの『純粋理性批判』について説明してほしいのよ」と女子学生は言った。

 

「かんたんだよ。実際の世界と見えてる世界はちがうって話」

 

「えっと……」

 

「わかりずらい? だったら、コレクションチェキに置き換えて考えてみなよ。実際に会ったメイドとコレクションチェキに写っているメイドは顔が少しちがってみえる……」

 

「理解できたわ! ありがとう!」

 

コペルニクス的転回……いや、コレクションチェキ的転回ってやつさ」

 

……

 

 六月四日。わたしは講義を終えてから秋葉原へ向かった。

 

 本店七階への階段を上る瞬間、熱のこもった風がわたしの頬を撫でた。季節は夏。冷えたビールがわたしを呼んでいる。

 

 わたしが店のカウンター席に坐ると、Mちゃんが注文をとりにきてくれた。わたしはビールとチェキとコレクションチェキを頼んだ。

 

 しばらくすると、Mちゃんがステージの上でマイクを握るのがみえた。わたしはすぐに自分の名前が呼ばれると思ったが、なかなか呼ばれず、次々と他の客の名前ばかりが店内に響いた。どうやらわたしの順番はもっと後ろのようだった。

 

 ところで、わたしはこのチェキの呼び出しが大っ嫌いだ。待ち時間が長いし、まるで区役所にきたような気持ちになってしまう。退屈せずにすむように、インフォメーションの横に本棚を立てて、『進撃の巨人』を全巻置いてほしい。

 

 結局、わたしが名前を呼ばれたのは最後から二番目だった。ステージへ向かうために席を立つと、隣に坐っていた見ず知らずの婦人がわたしに声をかけた。歳は五十くらい。髪がまっすぐで、きつい香水のにおいがした。

 

「あなた、財布をテーブルの上に置きっぱなしよ」

 

「心配ないよ。すぐに戻ってくるし」とわたしは言った。

 

「だめよ。知らないの? 本店七階では置き引きが増えてるんだから」

 

「そうなの?」

 

「あなたブロンズご主? この階では常識だわ。人って、チェキを撮っている時間がいちばん無防備になるの。連中はそれを知っていて、あなたみたいな一人客をつねに狙っているわ」

 

「じゃあ、盗られないようにきみが見ててくれよ」 わたしはそう言い、財布を置いたままステージのほうへ歩いていった。

 

「ちょっと!」

 

……

 

 ステージでMちゃんがわたしを待っていた。

 

 Mちゃんの出身はエルヘブン。大陸の窪地にあり、外界から船で海の神殿を通らないと訪れることができない場所だった。彼女はその町で一生暮らすつもりだった。しかしある日、魔物ミルドラースによって町から連れ去られてしまう。

 

 ミルドラースが彼女を狙ったのは、エルヘブンの民のみが持つといわれる、ある能力が目的だった。

 

ーーその能力こそ、コレクションチェキである。

 

 彼女がコレクションチェキを描くたびに魔物界と人間界をつなぐ扉が開かれた。ミルドラースはそれを利用し、世界を破滅させようとしたのだ。

 

 しかしミルドラースが思っていたよりも、彼女のコレクションチェキは強力だった。ミルドラースはそのコレクションチェキを制御することができず、寝不足の日が続き、カフェインの摂りすぎで死んでしまった。彼が復活するその日まで、世界には安泰がもたらされるだろう。

 

 一方、Mちゃんは都会の利便性の良さに気づいてしまい、エルヘブンに戻ることができなくなってしまった。現在は東京で暮らしながら、生活費を稼ぐためにメイドとして働いている。

 

……

 

 わたしはMちゃんとのチェキ撮影を終え、自分の席へ歩いて戻った。隣に坐っていた婦人はいなくなっていた。財布はそのままテーブルの上に残ってあった。

 

 わたしは鞄からパソコンをとり出し、書きかけの論文の続きを再開した。

 

 テーマはもちろんわたしの専門分野である、コレクションチェキについてである。

 

 いにしえより人類はコレクションチェキとともに成長してきた。

 

 約一万年前にアフリカのホモ・サピエンスが農耕と牧畜とコレクションチェキを開始した証拠が遺跡から確認されている。その後人類は文明を発展させ、コレクションチェキを奪いあうために戦争を起こしてきた。

 

 いったいコレクションチェキのなにが人類をそこまで魅了しているのだろう。

 

 カントはコレクションチェキについてこう書いている。

 

「コレクションチェキにはアンビバレントな側面がある。ちょうど愛と憎しみのように、相反する感情が存在している。それが人々を惹き付けるんだ」

 

 ニーチェはこう語った。

 

「あなたがコレクションチェキを覗いているとき、コレクションチェキもまたあなたを覗いている」

 

 わたしはこう考察している。

 

「かわいい女の子と二分間もしゃべることができて千円は安い」

 

……

 

 わたしがパソコンを閉じたのと同時に、ちょうどMちゃんがやってきた。彼女はソロチェキを何枚かテーブルの上に広げ、そのなかから一枚だけを抜きとり、残りをポケットにしまった。

 

「ねえ、あなた、昨日はなにしてたの?」とMちゃんが訊いた。

 

「そんな昔のことは覚えてないよ」とわたしは答えた。

 

「あっそう。明日の予定は?」

 

「そんな先のことはわからないよ」

 

 わたしがそう言うと、彼女は黙ってしまった。そのまま二分が経過し、終わりを告げるタイマーが鳴った。わたしにはその音がオオカミの甲高い遠吠えのように聞こえた。

 

「完成したわ」と彼女はいって、わたしにコレクションチェキを渡した。

 

「ありがとう。すてきなコレクションチェキだよ」

 

「ねえ、明日も逢えるかしら?」

 

「さあ、どうだろう」とわたしはいった。「コレクションチェキが欲しくなったらくるかも」

 

「あなたって、毎日コレクションチェキを欲しがってるじゃない!」

 

 わたしたちは二人で大笑いをした。

 

 わたしは別れの挨拶を言って店を出た。そしてすぐに近くのトイレに入って隠れた。あぶない、もう少しで変身の魔法が切れ、ばれてしまうところだった。

 

 わたしは魔物ミルドラース。コレクションチェキのとりこ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アンドロイドはコレチェキの夢を見るか?

 

 

 朝、目を覚ますと、隣に見知らぬコレクションチェキが置いてあった。やれやれ。

 

 わたしはよく、このような状況に追いやられる。アルコールをたくさん呑み、朦朧とした意識のまま、ついついコレチェキを買ってしまうのだ。

 

 わたしは酒、タバコ、そしてコレチェキのせいで頭がおかしくなっている。もちろん躯もぼろぼろで、医者からはいつ死んでもおかしくないと告げられてしまった。

 

 一般的には、コレチェキを一枚書いてもらうごとに、寿命が三週間縮むと言われている。

 

 わたしは今までに九〇〇枚のコレチェキを受け取ってきた。寿命が八十年だとすると、わたしはあと一ヶ月しか生きられない計算になる。だけどわたしは冷静。悲しみのなかに幸せを見つけるのがうまい。もうすぐ死んでしまうということは、もう新しいチェキ・ファイルを買わずに済むということである。

 

 わたしは愛車の一九六九年式マーキュリーに乗り、太陽が沈んでいく方向へ車を走らせていた。行くあてはなかった。四時間くらい運転していると、太平洋にたどり着いた。

 

 わたしは海岸沿いの路肩に車を停め、シートをいっぱいに倒し、タバコに火をつけた。窓の外に目を遣ると、カモメが二羽飛んでいくのが見えた。頭をシートの背もたれにつけて目を閉じる。棺の中にわたしの死体があり、その周りにコレチェキが添えられている映像がまぶたの裏に映る。わたしの葬儀だ。家族や数少ない友だちがちらほら見えるが、しかしコレチェキに写っている女性はひとりも参列していない。やがてわたしは火葬場に運ばれて、コレチェキとともに灰にされてしまった……。

 

 わたしはそのまま眠ってしまっていた。気がつくと、すっかり夜になっていた。あたりは静寂に包まれていて、波の音以外は何も聞こえない。わたしは車のエンジンをかけ、自宅までまっすぐ帰った。

 

 次の日。わたしは机の上にノートを開き、コレチェキについて考えたことをまとめていた。

 

 わたしの人生、つまりコレチェキを貰い続けるだけの生活には、何か特別な意義があっただろうか。

 

 そもそもコレチェキって何なんだろう。

 

 わたしは辞典を開いて、『コレチェキ』の欄を調べた。そこにはこう書いてあった。

 

【コレチェキ】 別名・愛と憎しみの時間。提供者と傍観者に分かれて行うボード・ゲームの一種である。主に女性が提供者となり、自らの姿を写したフィルム写真に花やリンゴなどの絵を描き加え、傍観者へ贈与する。傍観者は写真や絵の完成度に関係なく、提供者に千百円を渡し、感想を述べる。始まりから二分が経つとゲーム終了となる。傍観者が満足すれば提供者と傍観者ふたりの勝利となり、傍観者が満足しなければ提供者と傍観者ふたりの敗北となる。傍観者はゲーム中に贈与された写真を持ち帰ることができるが、そこに愛と憎しみのどちらが込められているか確認することは不可能である(勝敗にも関係しない)。また、このゲームの起源がアダムとイヴであることから、禁断のアミューズメントとも言われている。

 

  ……わたしは、わたしの人生を、このボードゲームに捧げてきた。勝ったり負けたりを繰り返しながら、ただ暇つぶしをしていただけだった。

 

 この空虚な人生に意味や価値なんて存在しない。わたしは突然、ニヒリズムに陥り、頭が痛くなった。

 

 アスピリンを飲むと少し落ち着いた。バスルームで吐いてから、机に戻って再度ノートを開く。

 

 わたしの人生は、コレチェキとともに灰になる。

 

 わたしの人生はつまらないものだっただろうか……いや、わたしはむしろ幸福だった。学校ではうまく馴染めず、仕事も思うようにいかなかった。だけどコレチェキを貰うあの瞬間、わたしはずっと、笑っていた。

 

 わたしの人生は、コレチェキとともに灰になる。

 

 コレチェキを渡してくれた女性たちのことを考える。彼女たちはわたしの葬儀に参加してくれない。わたしのことを愛していなかったからなのかもしれない。しかし、わたしは感じていた。わたしがコレチェキを受け取るあの瞬間、わたしの躯中に流れるクラシック・ジャズの美しい旋律を。

 

 わたしの人生は、コレチェキとともに灰になる。

 

 わたしは夢を見ながら現実を生きてきた。わたしは小さい頃から絵描きになりたかったが、残念ながら絵は一枚も売れなかった。わたしはたくさん夢を見てきたが、これだけは言える。わたしが死ぬ瞬間、わたしの走馬灯に映るのは、今まで見てきた夢ではなく、現実の記憶である。コレチェキを眺めながら微笑んでいるわたし。

 

 わたしは立ち上がり、自宅のドアを開けて外へ出た。

 

 コレチェキを貰いに行かなくちゃいけない。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5月19日 コレチキ

 

 

 高校に入ったばかりのわたしは喧嘩ばかりしていた。といっても、わたしは痩せ型で腕っぷしが強くなかったため、相手は十二か十三歳ぐらいの男の子が多かった。

 

 喧嘩以外にも、たくさんの悪事をやった。不法侵入、窃盗、器物破損、ドラッグ、コレクションチェキなどなど。

 

 警察署に何度も呼び出されて、そのたびに警察官はわたしの頭を警棒で殴った。わたしはそれでも犯罪行為をやめなかった。人生にひどく退屈していて、何もしないよりはマシだったからだ。

 

 様々な犯罪行為の中でも、わたしはコレクションチェキに夢中だった。マリファナを吸うよりもコレクションチェキのほうがハイになれた。路地で女を見かけるたびに、ナイフを突き付けて、無理やりコレクションチェキを書かせた。通称 “コレチェキ狩り” である。

 

 最初の頃は、わたしはひとりでコレチェキ狩りを行っていたが、徐々に仲間が増えていった。いつの日からか、わたしたちのグループは地元でいちばんのコレチェキ狩り集団となっていた。わたしたちが街を歩くだけで女が逃げていく。とても気分がよかった。

 

 もはや警察も敵ではなかった。わたしたちのグループは彼らの手に負えないほど大きくなりすぎていた。わたしたちは学校をサボり、真夜中になるまでコレクションチェキをやり続けた。

 

 そんな中、仲間のレントンが死んだ。悲しい知らせだった。コレクションチェキをやりすぎたせいで、心拍数が異常なほど増え、心臓がプラスチック爆弾のように破裂したのだ。

 

 仲間のみんなで彼の死体を埋めてやり、そのままコレチェキ狩りのグループは解散した。

 

 わたしは死ぬのが怖くなり、その日からコレクションチェキ断ちをすることにした。

 

 コレクションチェキを断つ副作用は想像以上に辛かった。まるで起きているのにずっと悪夢を見ているような気分。ベッドの上に仰向けでいると、天井にヒビが入り、崩れ落ちてくる幻覚におそわれる。わたしは繰り返し吐いた。

 

 コレクションチェキの副作用を押さえるためには、コレクションチェキをやり続けないといけなかった。 心ではコレクションチェキを拒絶していても、体がコレクションチェキを欲してしまう。

 

 結局のところ、わたしはコレクションチェキを再開した。我々はどうせ、いつか死ぬのだ。

 

……

 

 五月十九日。本店七階では学園コスデーが開催されていた。

 

 わたしは朝早くに目を覚まし、支度を整え、ビールを飲みながら電車で秋葉原へ向かった。

 

 七階にはMちゃんがいた。彼女の制服姿がわたしに残念な学生時代を思い出させる。わたしは家に帰りたくなったが、コレクションチェキを貰うまでは帰れなかった。

 

 わたしが座ってコレクションチェキを待っていると、七階のMちゃん(別人)やNちゃんがやってきてくれた。Nちゃんが言った。

 

「あんたの書いたブログを全部読んだわ。お母さんがコレクションチェキを置いて出ていったって本当なの? 」

 

「ブログに書いてあることは全て事実だよ」

 

「母親が今のあなたを見たら驚くでしょうね。だってあなた、ひどく醜い顔をしてるもの……コレクションチェキ中毒者の顔だわ!」

 

「さっさとMちゃんを連れてきてくれ!」

 

 しばらく待つと、Mちゃんがわたしのテーブルに来た。

 

「ねえ、わたしはコレクションチェキを貰うために生まれてきたのかな」とわたしは言った。

 

「奇遇ね。あたしも同じことを考えてたわ。つまり、コレクションチェキを書くために生まれたのかなって」

 

「きみはコレクションチェキを書き続ける人生でいいの?」

 

「踊りながら朝を待つ生活よりはずっといいわ」

 

「気に入った」

 

 わたしは店を出た。貰ったばかりのコレクションチェキを燃やし、海に行って灰を撒いた。

 

 死んでいった仲間のために、わたしはこれからもコレクションチェキを貰い続ける。わたしはそう決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

5月15日 コレチェキ

 

※今回のブログはセリフの言い回し以外はすべて事実です。

 

……

 

 十二月半ばの話。日曜の夕方だった。わたしは歯医者を探していた。突然左側の奥歯が痛くなったのだ。

 

 しかしなかなかクリニックが見つからない。近所のクリニックはどこも混んでいた。わたしが電話をかけるたびに、受付の女が出て、予約が埋まっているから診察できないと、申し訳なさそうな調子を演じて断る。それでもわたしは十軒以上のクリニックに電話して、ようやく診てくれるところを見つけた。電車を使って三十分かかる街のクリニックだった。

 

 クリニックに着いたのは午後六時だった。そこには七十くらいの痩せた男性(歯医者)と六十くらいの太った女性(歯科助手)がいた。患者はわたしひとりだけだった。

 

 歯医者が治療台の上にわたしを乗せる。デジタルカメラで口の中の写真を撮り、写真を見て言った。

 

「きっと、親知らずでしょうねぇ」

 

「親知らず?」

 

「ええ、そうです。今日抜きますか? もしかしたらかなり痛いかも。親知らずの抜歯は思ったより大変な治療なんですよ。まるで悪魔祓いの儀式みたいにね」

 

「かまわない。今すぐ抜いてくれ」

 

 歯医者がわたしに麻酔をかける。親知らずは歯茎の奥深くに埋まっていた。彼は手術用メスで歯の周りを削り、一時間以上かけて、なんとかわたしの親知らずを抜き取った。……実際のところ、わたしはあまりよく覚えていない。痛みと恐怖のあまりにほとんど気を失っていたのだ。

 

 治療が終わり、歯医者が患部にガーゼを押さえながら言う。

 

「出血が止まるまでは絶対にタバコを吸わないでね」

 

「えっ。吸うとどうなるの?」

 

「いいかい、君の下顎には今、ぽっかりと穴が空いている状態なんだ。親知らずを取り出す時に私が空けた穴だよ。通常ならばその穴は自然治癒で塞がっていくんだが、タバコを吸うと、ニコチンが邪魔をして、穴が塞がらなくなるんだ。そしてそれはひどい痛みを伴う。わかったね?」

 

 わたしはクリニックを出て、駅前の喫煙所でキャメルを一本吸ってから家に帰った。

 

……

 

 翌日、わたしはベッドの中で丸一日泣いた。

 

 激痛。ひどい激痛だった。頭の上に釘を打ち込まれるような痛みがラテン・ミュージックのようなビートで永続的に繰り返される。

 

 わたしは朝、痛みのあまりに目が覚めてから、夜まで、ベッドのシーツの端を強く握り続けた。アスピリンを何錠も飲み込んだが、まったく効果はなかった。

 

 薄れていく意識の中、『親知らず 抜歯 タバコ』のワードでネット検索をかける。すると、同じ体験をした女性のブログが見つかった。彼女はこう書いていた。

 

「これまでの人生で一番痛かったわ。もちろん麻酔を使わない出産よりもね」

 

 さらに次の日。わたしは事情を話して再度クリニックへ出向いた。しかし彼らにできるのは口の中の消毒だけだった。自然に治るまで痛みに耐えるしかないと説明を受け、わたしは生まれて初めて静寂の音を聞いた。

 

 痛みは十日間続いた後、徐々に弱まっていった。

 

 だが、痛みが完全に消えることはなかった。正しくは、親知らずを抜いた穴の痛みは消えたが、わたしが歯医者を探すきっかけとなった当初の痛みがまだ残っていた。つまり当初感じた痛みは親知らずが原因ではなかったのだ!

 

 わたしは親知らずを抜いたクリニックを諦め、他のクリニックで診てもらうことに決めた。

 

 家から歩いて二十分のところにある、つい最近開業したばかりのクリニックに電話をかけて、一週間先の予約を取ることに成功した。

 

 一月十四日。そのクリニックは高級住宅街に囲まれた土地にあった。綺麗な建物だった。

 

 待合室にはわたし以外の患者がたくさんいた。幸せそうな顔をしている奴ばかりだった。わたし以外のみんなは虫歯なんて一本もなく、すでに白い歯を持っているが、その白い歯をさらに透明に近づけるためにクリニックに来ている感じがした。

 

 わたしの名前が呼ばれ、わたしはレントゲンを撮ってもらった。三十代くらいの日焼けした歯医者の男がわたしの担当だった。彼は言った。

 

「虫歯が四本あります。特に左側の奥。親知らずがあったところの手前の歯です。レントゲンの写真を見てください。ほら、ここに映ってる影が虫歯です。虫歯の中でも一番ひどい症状ですよ」

 

 わたしは根尖性歯周炎という虫歯を患っていた。この虫歯は歯の根元に原因があるため、肉眼ではもちろん、レントゲンで撮ったとしてもなかなか見つけられない病気らしい。

 

 その日からわたしは毎日クリニックへ通い、少しずつ歯の根っこの細菌を取り除いてもらった。 その歯の治療が終わるまでに丸二週間もかかった。

 

 奥歯に詰め物をしてもらった後、歯医者が他の虫歯を見るために口の中を点検した。そして、言った。

 

「チャブさん、よく聞いてください。虫歯が増えています」

 

「えっ?」

 

「私も今まで左側の奥歯の治療に専念していたので気づきませんでしたが、右上と左上にひとつずつ新しい虫歯ができていました。つまり今、虫歯が五本あります」

 

 わたしは元々、虫歯が四本あった。そのうちの一本を二週間かけて治しているうちに、新たに虫歯が二本増え、現在は五本になったらしい。わたしは算数が苦手だった。頭が混乱して吐きそうになった。

 

「来週から他の歯の治療を開始しましょう。ブラッシングが甘いのかもしれません。しっかり磨くように」

 

 わたしのブラッシングは決して甘くなかった。

 

 わたしは受付でお金を払い、次の予約をとった。

 

 次の週、わたしはその予約をすっぽかした。

 

 わたしはすべてが嫌になり、歯の治療を諦めることにしたのだ。虫歯があっても幸せな人はたくさんいるはずだ。今のところ痛みは出ていないし……。

 

……

 

 五月十五日。わたしは昼まで寝て、歯を磨き、缶ビールを何本か飲んでから秋葉原へ向かった。

 

 まずは本店七階。Mちゃんがわたしを待っていた。

 

「これが今日の分のコレクションチェキよ」

 

 わたしはMちゃんからコレクションチェキを受け取った。

 

「いつも、すまないね」

 

「いいのよ。だって仕事だから」

 

「君はいつまでこの仕事を続けるんだい?」

 

「大鷲に連れ去られるまでよ」

 

「君はリスに喰われるのがお似合いだよ」

 

 わたしたちはふたりで大笑いをした。

 

 七階を出て、路地で吐いた後、わたしは四階へ向かった。

 

 Mちゃんがわたしを待っていた。わたしは彼女のコレクションチェキを頼んだ。

 

「最近、占いにハマってンのよ。あんたのことも見てあげるわ」とMちゃんが言う。

 

「どうだい?」

 

「あんた、二十二日後に死ぬわ」

 

「その日はだめだ。美容院を予約してあるんだ」

 

 わたしは店を出て、スーパー・マーケットでタバコを二カートン買ってから家に帰った。歯を磨いてベッドに入った。砂漠でひとり取り残される夢を見ながら眠った。

 

 

 

 

5月8日 コレチェ

 

 五月八日午前八時――わたしは留置所のベッドの上で目を覚ました。公安警察がわたしを逮捕してから二日目の朝だった。留置所の部屋は朝になるとひどく冷え込む。わたしは薄手のシーツを体に巻き付けながら、立ち上がり、部屋のトイレで吐いた。しばらくベッドで休んでいると、看守がやって来てドアを開けた。

 

「おい、コレクションチェキの時間だ」

 

……

 

 二日前の夜、わたしは六十四年式のマーキュリーを走らせて中央通りを西へ向かっていた。ご帰宅を終え、家に帰ろうとしていたのだ。カー・ステレオからビートルズの『ペニー・レイン』が流れていた。窓を開けると、心地よい風がわたしの顔を撫でた。その夜、わたしはめずらしく気分がよかった……。

 

 大きな交差点を少し過ぎたところに警察官が二人立っていた。わたしが通り過ぎようとすると、警察官のひとりがわたしに車を停めるよう合図を送った。わたしは車を停車させた。

 

「いったい、何ですか?」

 

「指名手配犯がこの道を通ると通報があったんだ。すまないが、調べさせてもらう」と背の高い警察官の男が言った。

 

「わたしじゃないですよ」

 

「いいから、認定証を出しなさい」

 

 わたしは認定証を出した。

 

「おいお前、クリスタルじゃないか!」

 

「それが何です?」

 

「そのランクでよくそんな口が利けたものだな。調べが終わるまで車から降りて待っていやがれ!」

 

 わたしは言われたとおりにした。背の高い警察官の後ろにいたもうひとりの太った警察官がわたしの車を調べ始めた。

 

 太った警察官がわたしの車のトランクを開けた。そこにはスーツ・ケースが積んであった。

 

「そのスーツ・ケースは丁重に扱ってくれよ。コレクションチェキが入っているんだ」

 

 わたしがそう言うと、背の高い警察官の顔つきが変わった。鋭い目でわたしを睨みながら、反射的にわたしの両手に手錠をかけた。

 

「お前を逮捕する!」

 

「冗談はよしてくれ」

 

「黙れ! やはりお前だったんだな。闇のコレクションチェキを不当に所持している指名手配犯ってのは!」

 

 わたしは警察署へ連行された。警察はスーツ・ケースのコレクションチェキを全て押収した。ケースの中にはドンキ店のAちゃんや四階のMちゃん、そして受け取ったばかりでまだインクの乾いていない七階のMちゃんのコレクションチェキもあった。

 

 わたしは警察署内でひどい取り調べを受けた。彼らはわたしにコレクションチェキを受け取った時刻や経緯を詳しく説明するよう求めた。わたしが少しでも記憶を思い出すのに手こずると、彼らは警棒でわたしの頭を殴った。わたしが全てのコレクションチェキについて説明し終えると、警察はわたしを留置所へと連行した。

 

……

 

 わたしは看守に続いて留置所の廊下を歩いていた。看守は面会室の前で立ち止まると、わたしに部屋の中へ入るよう促した。わたしが面会室へ入ると、透明のガラス越しにスーツを着た三十代くらいの知らない女性が座っていた。

 

「私が今からあなたのコレクションチェキを書く。あなたが闇のコレクションチェキを受け取る素質があるかどうかテストするのよ」

 

 スーツの女性はそう言うと、きっちり二分に設定されたタイマーのボタンを押した。

 

 お互い無言のまま二分が過ぎて、コレクションチェキが完成した。

 

「シロね。あなたは闇のコレクションチェキを持つ素質のない、ただのクリスタルご主だったってことよ」

 

 こうして、わたしは留置所から解放された。わたしはマーキュリーを運転して秋葉原へ向かった。

 

 まずは本店七階に入った。

 

 Mちゃんがわたしのコレクションチェキを書きにやって来た。

 

「今日は虹色の虫の絵でも書こうかしら」とMちゃんが言う。

 

「だめだ。今日はあれを書いてくれないか?」

 

「だめよ。もし誰かに見つかっちゃったら、あたし、この店に居られなくなっちゃうもの」

 

「たのむよ。もう二日間もコレクションチェキをやってもらってないんだぜ?」

 

「わかったわよ!」

 

 Mちゃんは闇のコレクションチェキを書く素質があった。わたしにはそれを受け取る素質こそなかったが、しかし闇のコレクションチェキは、闇のコレクションチェキ・スリーブに入れることで、受け取りを可能とした。

 

 わたしは闇のコレクションチェキ・スリーブを愛車のシートの裏に隠し持っていた。馬鹿な警察たちはスーツ・ケースに気を取られ、車内を詳しく調べなかったのだ!

 

 わたしはMちゃんの闇のコレクションチェキを楽しんだ。

 

「あたし、わかるの。あなたはいずれ捕まるわ。もうこんな生活終わらせたほうがいいのよ」

 

「きみにわたしの気持は理解できないよ」

 

 わたしは本店四階へ向かった。

 

 Mちゃんがわたしを待っていた。彼女は子供の頃から闇のコレクションチェキを書いており、すでに何度も捕まったことがあるが、出所してもなお、闇のコレクションチェキをやめられずにいた。

 

 わたしはその日二枚目の闇のコレクションチェキを受け取った。

 

「アタシ、そろそろ闇のコレクションチェキをやめようと思ってンの。真っ当に生きてみようと思ってて……」

 

「ああ、そう」

 

「アタシが闇のコレクションチェキを書かなくなっても、あなたはアタシのコレクションチェキを貰ってくれる?」

 

「普通のコレクションチェキには興味がないよ」

 

 わたしは店を出て、ビールを飲みながら、車を運転して帰った。

 

 わたしもそろそろこんな生活をやめにしないといけない。言われなくてもわかっている。だが結局は今のところ、わたしにはコレクションチェキしかないのだ。

5月5日 ちいかわ

 

 わたしが八歳の頃、わたしの母親は軽食用テーブルの上にコレクションチェキを一枚だけ書き残してどこかへ消えてしまった。父親はひどく落ち込み、外で飲み潰れて家に帰ってこない日も多くあったが、それでもわたしのことをたったひとりで養い育てた。

 

 わたしは十八になり、東京の大学に通うことが決まった。わたしが生まれ育った家を出る日、父親は初めてわたしの目の前で涙を流した。

 

「これからはひとりで頑張るよ、父さん」

 

 大学生活の初日。わたしは朝、起きれなかった。

 

 その日は授業の履修登録についてのガイダンスがある日だった。わたしはガイダンスを受けることができなかったため、もちろん履修登録のやり方が分からない。周りは知らない学生ばかりで、わたしに履修登録を教えてくれる友だちはひとりもいなかった。

 

 わたしは履修登録ができず、そのまま大学をやめてしまった。

 

 わたしは怒られるのが怖くてしばらく父親に報告できなかったが、夏に帰省した際、父親にすべてを打ち明けた。

 

 父親は、わたしの予想に反して、あまり怒らなかった。それどころか仕送りを今まで通り続けると言った。きっと、わたしが母親の愛情を受けずに育ったことがすべての原因だと考えて、わたしが大学をやめたのも自分自身に責任があると解釈したのだと思う。

 

 それから七年が過ぎた。わたしはいまだに父親の仕送りを頼りにして東京でひとり暮らしをしている。

 

 五月五日。わたしは午後二時に起きて、ウイスキーのパイント壜をベッドの上で飲み干し、シャワーを浴びてから秋葉原へ向かった。

 

 最初にアキカル店へ入った。ビール、オムライス、そしてチェキを二名分注文した。祝日だったが、店内は混んでいなかった。かわいらしい女の子たちが次から次へとやって来た。みんながわたしに優しくする。

 

 路地で吐いてから、エレベーターに乗って本店七階へ移動した。

 

 七階の入口にはMちゃんがいた。彼女はわたしに三回もコレクションチェキを渡したことがある。彫刻家であるフランス人の父親とスパゲッティを茹でるのが上手い母親の元にひとり娘として生まれ、飲料水の代わりにダイエット・コーラを飲まされて育てられてきた。特徴的な大きい瞳の奥にはドラゴンが封印されている。

 

 わたしはビールとMちゃんのチェキを注文した。

 

 チェキ撮影。わたしは悪魔が神に逆らう瞬間を模した宗教的なポーズをとった。シャッターが降りる瞬間、Mちゃんの瞳の奥が真っ赤に染まった。ドラゴンが火を吹いたのである。

 

 撮影が終わり、わたしは自分の席でしばらく待つことになった。

 

「ああ! これからチェキのお渡しが始まると思うと、いてもたってもいられない! まるでコース料理のメインが運ばれるの待っている六歳の少年みたいな気分だ!」

 

 わたしは思わず叫んでしまい、他の客たちが一瞬、わたしのことを見て、すぐに目を逸らした。

 

 Mちゃんがわたしのチェキを持ってきた。

 

「このチェキを胸ポケットに入れて海辺を散歩したいね」とわたしは言った。

 

「海辺を散歩するなら夜がいいわ。波たちの奏でる悲しいバラードが聴こえるもの」

 

「きみなら貰ったチェキをどう使う?」

 

「すべて燃やしちゃうかもしれない」

 

「きみらしいね」

 

 わたしは店を出て、缶ビールを飲みながら帰路についた。

 

 家でわたしの帰りを待っていたのはレコードの針だけだった。わたしはモーツァルトのピアノ・ソナタ第11番を聴きながら眠りについた。

4月27日 コレクションチェキ

 

 

 わたしがまだ幼い頃、母親は哺乳瓶のミルクにこっそりとウイスキーを混ぜてわたしに飲ませた。ちょっとした悪戯だったらしいが、わたしの体は深刻な状況に追いやられている。アルコール依存症歴二十四年と六ヶ月。まともに現実を見られなくなり、未だに仕事なし。つねに昨日のことばかり考えて生きている。ハトのようなひどい暮らし。わたしが八歳になった頃、母親はキッチン・テーブルの上にコレクションチェキだけを残して消えてしまった。

 

 四月二十七日。わたしは昼に起きて、鏡の前で顔を洗い、髭を剃り落とした。リビングに移動し、パン屋で買ったパンを食べ、新しいシャツに着替えて、外へ出た。

 

 水曜日だった。コレクションチェキをもらいに行かないといけない。

 

 電車に乗る前に駅前のスーパー・マーケットに立ち寄り、安いウイスキー・ボトルを一本買った。それを電車が停まるたびに数滴ずつ舐めた。秋葉原駅に着く頃には全て飲み干してしまった。

 

 わたしはアキカル店でビールを頼んだ。名前の知らないメイドがわたしに向かって顔が赤いと言う。わたしはにやにやと微笑んでやり過ごした。

 

 店はそれほど混んでいなかった。手の空いているメイドがわたしの元へやって来て、昼間からビールを飲んでいることにあれこれと言ってきた。こういう時、わたしは言い返す言葉が何も見つからない。わたしはずっと黙っていた。わたしが黙っていると、メイドたちは飽きて他の客の相手に回った。わたしはひとりでビールをゆっくりと楽しんだ。

 

  アキカル店ではコレクションチェキを頼まなかった。コレクションチェキにはまだ早すぎると思った。わたしは完全に酔っ払った状態でないとコレクションチェキを楽しめない性質なのだ。

 

 アキカル店を出て、コンビニでワインを買い、人の少ない路地で飲んだ。そして、本店四階へ向かった。

 

 わたしを出迎えてくれたのはMちゃんだった。彼女は、これまでに百枚以上のコレクションチェキをわたしに渡してくれたことがある。わたしは彼女のコレクションチェキを頼んだ。

 

 ビールを飲みながら待っていると、Mちゃんがやって来て、コレクションチェキを書いてくれた。

 

「コレクションチェキは、一枚につき、一つの別の世界が存在していると思うんだ」とわたしは言った。

 

「きっと、そうだわ」と彼女はペンを握りながら言う。

 

「きみはコレクションチェキを何のために書いている?」

 

「昨日の夢の続きを見るためよ」

 

「そういえば、この前、わたしは夢を見たんだ。夢の中でもきみはわたしにコレクションチェキを書いていたね!」

 

 わたしたちは二人で大笑いをした。

 

 コレクションチェキをもらった後、わたしは階段を上がり、七階へ入った。七階ではイースター・パーティが開催されていた。

 

 そこでわたしはMちゃんのコレクションチェキを頼んだ。彼女からコレクションチェキをもらうのは三回目だった。

 

「今日はコレクションチェキのような一日だったよ」とわたしは言った。

 

「コレクションチェキって、まるで影のようにあたしたちの生活に着いてくるのよね」

 

 そのとおりだった。コレクションチェキはまるで影のようにわたしたちの生活に着いてくる。

 

「人生はまるでそっくりそのままコレクションチェキだよ」

 

 わたしがそう言うと、閉店のアナウンスが流れた。コレクションチェキをポケットにしまって店を出た。路地裏で吐いてると、猫が一匹、走り抜けて行った。わたしは電車で家に帰り、たっぷりと八時間眠った。

 

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